うずのなか

はつかのこころのうずのなか

総体としての何か。

小説を書いている。

ちまちま書き始めたそれは、正直どこにどういくのかも何も決めていなかったので、手探り手探りで、毎日書いたり書かなかったりしている。

小説を書いていて思うのは、小説家はすごいということだ。

私は、自分の考えやなんやかんやを言葉にしたくてこうして日々文章を書いたりなんだかんだりしているけれど、でも言葉にできる感情なんて本当に爪の先くらいで、言葉にできない感情が山のようにある。

小説家は、それをひろいあげる。ひろいあげて、でも直接言葉にしてしまうと「後悔」とか「悲しみ」とか「自己嫌悪」とか「喜び」とかいう薄っぺらくなってしまうそれを、物語の中で立体的に組み上げて届けてくれる。

これがとんでもなく凄い。すごすぎて腰抜けちゃう。

私は自分の感情がどうなっているのかわからないし、形のないそれを、それでも形のないまま伝えるにはどうすればいいのかも、わからない。

きっと、私は自分が病気になったときの感情や、空気や、息苦しさや、死にたさや、それでも生きていることを、誰かに、あるいは自分自身に、伝えたくて物を書いている。でも、どうしたらそれが、立体的に立ち上げて小説として感情を伝えることができるのか、皆目見当もつかない。

見当もつかないけれど、書いている。

二次創作は「私の『解釈』をこの世に顕現させなくては」という謎の使命感がエンジンとなって稼働していたんだけれど、私にこの小説を書かせるエンジンって何だろう。

たぶん、私は知りたいのだ。

自分が病気になったことで、何を得たのかを、知りたいのだ。失ったものはたくさんある。でも得たものが何かと言われれば、それは言葉にできない。確かに何かを得た。得たと思う。だって、それが私の人生のほとんどだったんだから。でも、それが何かわからない。私が今手に持っているこれが、なんなのかわからない。

きっと、それを知りたいだけなんだ。それを知りたくて、その手段として私には書くことしかない。

小説という形をかりて、その総体として、私が得た何かを見つけたいのだと思う。