うずのなか

はつかのこころのうずのなか

友達が少ない。

友達が少ない。

およそ友達だと言える人間は、片手で収まる数しかいない。
こうかくと、五人もいるように思えるけれど、実際は三人なので親指と小指ぶんサバを読んでいる。

そもそも、友達の定義が難しいと思う。

私は小学生のころから姉に「お前は友達がいない」と言われ続けてきた。その暴言に多少の傷を負いながら、だけれどもそんなことはないと思っていた。学校に行けば話す子はたくさんいるし、孤独だと感じたことはなかったからだ。だから、姉は私にいじわるをしたくて、そういう根も葉もないことをいうのだとずっと思っていた。

 

「この子、昔から友達いなかったから、こうして仲良くしてくれる子がいてくれて安心したわ」

姉がそう言ったのは、私が地元で友人と遊んだ日だった。仕事帰りの姉と都合があったので、姉の車で、夕方に一緒にジェラートを食べに行った。

後部座席にのる友人が「友達、いなかったんですか」と笑いながら聞いた。彼女は高校時代の友人で、唯一連絡を取り合っている子だ。三本の指の人差し指である。

「いなかったよお、こっちが心配するくらい」

失礼な、と思った。それから、もう二十歳を超えた(というかどちらかというと三十路に近づいている)姉が、未だにそんな意地悪をいうのを不思議に思った。

「失礼だな、いたよ、友達」反論する。

「いなかったよ。放課後とか、誰とも遊ばなかったじゃない。誰かの家に遊びに行くことはほとんどなかったし、いつも家で本読んでて、友達いなかったでしょ」

「そういう子はいなかったけど、学校にはいたよ」

「そういう友達がいないことを心配してたの。親友とか、いなかったでしょ」

姉がいう。確かに、私は家に友達を呼ぶこともなければ、呼ばれることもほとんどなかった。だけどそれを苦に思ったことはなく、家に帰れば祖父母が水戸黄門を見ている横で本を読んでいた。そういえば、昼休みも基本的に寝るか本を読むかしていたな。あれ?

「だから、昔から友達いなくてね。本当に仲良くしてくれてありがとね」

姉が友人に向かって、小学生の母親みたいなことを言う。その声を聴きながら、もしかして、という仮説が私の中で浮かび上がった。
「もしかして、私に友達がいないって、あれ、いじわるで言っていたんじゃないの?」

 

十数年越しの真実なのだが、どうやら私には友達がいなかったらしい。
その「友達がいない」は小学生から引き続き今も継続していて、定期的に連絡を取り合う友人は三人だ。高校の時の友人がひとり、大学がふたり。大学生だったことは、八人くらいのグループで行動することもあったが、卒業してまで連絡を取り合って会うのはふたりのみだ。共同体を抜けてまで維持する繋がりが、私には非常に少ないのだと、改めて認識した。

そもそも、友達という定義が難しい。姉が言う友達は、用がなくてもあったり話したりする仲で、それって相当仲良くないと無理だ。休みの日は休みたいし、寝たいし、本読みたい。こうして文もかきたい。それを押しのけてまで会いたいと思う人間って、正直それほど多くはない。それほど多くないので、学校という会う場所がなくなってしまうと、自然と糸が切れてしまう。

こういうの、普通だと思ってたんだけど、どうやら違うらしい。
いや、わからない。他人の友達事情をしらないので、なにもわからない。知り合いと友達の境界線もわからないし、毎週友達と会ってるみたいな人のアクティブさも理解できない。
私にわかるのは、私が「友達だ」と言って「(え、勝手に友達認定される!)」って思わないだろう相手が三人しかいないってことだけだ。しかいないのか、もいるのか、わからない。

だけど、嫌なことがあったときに、愚痴を聞いてくれる友人が三人いるってことはありがたいことだと思う。あと、私にはこれくらいの小ささがぴったりな気もする。あまり多いと、いろいろと大変そうだし。

姉の意地悪は意地悪じゃなかったと知ったときは、少しショックだったけど、多ければ多いほどいいってもんでもない。たぶん。友達百人できるかなって思ってた保育所のころの私には少し申し訳ないけれど、それでも会いたくなったら気軽に連絡できる相手が三人はいます。これで満足してください。少ないけど、最高の友人です。

 

とはいえ、親指と小指に数えられる人も募集しているので、誰か立候補してくれてもいいですよ。