うずのなか

はつかのこころのうずのなか

日記。

【本当にただの日記なので、面白くないです。】

朝起きて、キュウリサンドウィッチを作った。

きゅうりを丸一本スライスして、塩もみ、15分置く。それを軽く焼いたトーストに挟む。ハムも忘れずに。味付けはマヨネーズと黒コショウ。きゅうりの歯ごたえがしゃきしゃきとして、夏らしくおいしい。みずみずしい歯ざわりが、寝起きですっからかんな身体をしゃっきりとさせてくれるようだ。青いきゅうりの香りが鼻から抜けると、自分が夏に居ることを思い出す。

それから、掃除機をかけた。母が体調を崩しているときは、家の掃除は私の仕事だった。誰が決めたわけでもないけれど、リビングや廊下が汚れていくのに真っ先に耐えられなくなるのが私というだけの話で、私にしたって、自分の部屋の掃除機かけのついでくらいに思っている。何事も、「やらなくちゃ」が一番苦手で難しい。「ついでに」くらいの気軽さが私にはちょうどよくあっている。

ここ数日降り続く雨のせいか、フローリングがざらざらとしている気がした。このぐずぐずした天気をさっぱり晴れにできればいいが、あいにく私にはそんな力はない。妥協案として、フローリングの水拭き用シートをモップの先に着けて拭きあげる。掃除機では取れない汚れがうっすらシートを灰色にしていく。

それが終われば、次はトイレ掃除。便座を上げて拭く。一人暮らしをしていた時にトイレ掃除はしていたが、家族四人が毎日使うとなると、その汚れ方は一人暮らしの比じゃない。特に今はみんな家で授業を受けたり仕事をしたりするから、余計。あまり好きな仕事とは言えないけれど、掃除後ににおいの取れたトイレを見るのは、少しだけ好きだったりする。

一通り掃除が終わったら、キッチンで夕飯に向けて一品作る。親戚から子芋が大量に届いたため、煮っころがしを作る。小さなじゃがいもを一個ずつ洗うのは手間だが、私はじゃがいもの煮っころがしが好きなので、好きなもののためにはえいやこら、しょうがない。すこし大きめのじゃがいもは半分に、ちいさいのはそのままで。鍋に入れて、酒醤油みりん砂糖で、落し蓋をして煮る。甘辛い香りが、雨の湿気に交じってリビングを包む。梅雨はいつもよりも、あらゆるものの香りを運んできてくれるような気がする。草木や、土や、川の、むっとするほど濃くて青いにおい。それに混ざって、じゃがいもの土の香りと醤油の香りがする。

煮詰めている間に、キッチンに椅子を持ってきて本を読む。よしもとばななTUGUMI』。吉本ばななの情景描写がすごすぎて、すべてにマーカーで線を引きたいくらいだと思う。こんな、人の脳みそに光を指すような表現ができれば、どれだけ楽しいだろうかと想像してみる。想像してもわらかないけれど、きっと吉本ばななと私が同じものを見ても、彼女のほうが私の何倍も美しくそれを感じることができるのだろうと思うと、少し悔しい。

じゃがいもは順調に煮えて、半分に切ったやつは少し煮崩れたけれども、おいしそうな煮っころがしが完成した。私は本格的に本を読む体制に入り、残り少なくなった『TUGUMI』を読み切ろうと試みる。つぐみという少女に、自分を少し重ねる。体の弱い彼女は、傍若無人に振る舞う。まるで病人らしくない。でも、その気持ち、わかるな。彼女は言う、自分が死んだときに「本当は、私はこういう人間だった、と自分なりに善く解釈したりする様を思い浮かべると、虫唾が走ります」と。すごくわかる。これほど虫唾が走ることはないだろうな、と思う。つぐみは傍若無人だし、やることは無茶苦茶だけれど、彼女の一本芯の通った生き方は、やはり人を引き付ける。私は自分の闘病時代(あるいはそれ以降の事)を思いながら、『TUGUMI』を読了した。

それから、冷蔵庫に残った二玉の焼きそばを取り出して、弟と自分の分の昼飯を作る。冷凍の豚バラ肉は、こういう時に便利だけれど、焼くと少し(いや、だいぶかも)固くて、正直あまりおいしくはない。キャベツと人参も入れる。付属のソース粉で味付け。面倒なのでフライパンのまま食卓へ出す。母は体調を崩すと菓子パンしか食べない新手のお化けみたいになるので、母の昼は作らない。本当は健康的なものを食べさせたいのだけれど、夕飯はちゃんと食べるからという条件で妥協する。焼きそばにはマヨネーズをかける。ダイエットのことは少しの間忘れる。

昼の片づけをして、少しの昼寝。

そのあと、本屋へ散歩に行く。

昔近くにあった本屋は今はもうなくなっていて、歩いて二キロほどの小さなショッピングモールに入っている本屋が一番最寄りになる。ちょうど雨と雨の隙間を縫うように、家を出る。折り畳み傘は忘れずに。

途中、蓮の花を見つける。写真を撮ろうと試みるけど、うまくいかなくて諦める。私は写真が上手じゃない。どうしたら上手に取れるのかもわからないし、たぶんセンスがないのだと思う。写真で取れない代わりに、きちんと言葉で伝えられたらいいのにと、いつも思う。だけど、私が見た蓮の花の大きさや、つぼみの上のほうがほんのり薄桃に染まっている美しさなんかを、上手に伝える言葉を持ち合わせていなくて、やはり悔しいなと思う。

橋を渡り堤防をすこし進み本屋へ行く。吉本ばななの本を何冊か購入。そのまま裏道を抜けて近くの喫茶店へ。ご夫婦が営む喫茶店は、こんな片田舎にあるのに妙におしゃれでナチュラルな内装をしている。暑いので、冷たいものが飲みたくて、バナナジュースを頼む。

祖母のバナナジュースが好きだった。バナナと牛乳だけで作った、少し青臭いやつ。うちにはジュースがなかったから、ジュースと言えば祖母のバナナジュースか梅シロップだった。お店のバナナジュースも、もちろんおいしいけれど、バナナジュースを飲むたびに、祖母のバナナジュースを思い出す。別に特別でもなんでもないけど、祖母が作るだけで、魔法のようにおいしく感じた。

ジュースを飲みながら『ハゴロモ』を読む。川の多い街の話だ。私の住む町も川が多い。岐阜は木曾三川にはさまれて、昔から水害に悩まされた地域だった。私の住むあたりも、母が幼いころに近くの川が決壊し、水害に見舞われたことがある。だから、古い家々は必ず家を道よりすこし高い場所に作る。それは身を守るための大切なことだった。最近ドーナツ化現象で増えてきた建売は、田んぼを埋め立てたままであまり盛土をせずに家を建てる。決壊しないにこしたことはないけれど、もしものときを考えると、少し心配になる。そんなことを思うのも、私が生まれも育ちもこの町だからだろう。

そんなことを考えながら、本を読む。一時間ほどして、店を立つ。一週間前にも一度きたことを、店主が覚えていたのか「いつもありがとうございます」と声を掛けられる。なにか気恥ずかしくて、微妙なあいさつをして出てきてしまう。すこし、心に引っかかる。

家に帰る。途中でスーパーによって明日の生姜焼きの肉を買う。それから食パンと母の菓子パン、あとアイスも。

夕飯の準備をする。鶏肉のマーマレード煮を作る。母の得意料理の一つだ。わたしもこれがすきで、マーマレードを料理に使ってしまうところが最高だといつも思う。そのままでも晩御飯のおかずに使ってもおいしいマーマレードは魔法のジャムだとすら思う。

手羽元には切り込みを入れる。軽く焼く。マーマレード瓶半分と、酒みりんしょうゆ。煮る。煮ている間に本を読む。マーマレードのさわやかな香りが、梅雨のむっと重たい空気を少しだけ軽くする。

 

そのあと、シャワーを浴びて、少し涼んで、こうして文章を書いている。こういうただの日記を書いていると、小学六年生のときの生活ノートを思い出す。とくに書くこともないのに、書かないと怒られるからという理由だけでちゃんと毎日書いてた私はえらいけど、特に面白くもない文章を、クラスの生徒全員分みていた先生はもっとえらいなと、改めて思う。

今日はこれまで、さようなら。